よそ見してたら噛みつくよ
「ほらこれ」
今年の。と短い言葉と共に、ずいと目前に突き出された紙袋へ手を伸ばす。御礼を言いそろりと中を覗けば、袋の底に小さな小箱が収まっていた。落ち着いたえんじ色にショコラカラーのリボンがきゅっと結ばれたそれを見て、マフラーの下では少しだけ口角が緩んでいく。
彼の母が大のスイーツ好きな事もあり、毎年トウヤ経由で届けられる"お裾分け"のバレンタイン。
――バレンタインには、好きな人やお世話になった人へ贈り物をするんだって。
そう言った小さな彼から、初めてチョコレートを渡されたのはもう数十年も前のこと。沢山買っちゃったからなんて笑う叔母さんの隣で、照れくさそうにしていたトウヤの事は今でもよく覚えている。
「今年はなんだろう」
「……さぁ。開けてみれば?」
ウキウキとした気持ちに返ってきたのは、なんとも素っ気ない一言。あの日の初々しさはどこへやら。すっかり無愛想になってしまった幼馴染の態度を残念に感じつつも、言われるままに箱を開けた。
上品な香りが鼻先を掠めていく。合紙の下では艶やかな粒が整然と並んでいて、甘くほろ苦い香りと共に指先を迷わせた。
どれから食べようか。こうして頭を悩ませる時間も密かな楽しみのひとつだ。
「すごい!見てトウヤ。これ金箔かかってる」
お品書きに視線を落としながら隣へと声を投げた。
澄んだ冬の陽射しで金箔が柔らかく煌めいて、ひと際目を引くショコラの粒に思わず声が弾む。
隣の彼は相変わらず興味がなさそうで、けれどそれもいつもの事。深く気にすることなく、私の意識は再び箱の粒へと戻っていった。
「……。それ」
「え?」
「金箔のやつ。オレンジピールが入ってるらしいよ」
フルーツ好きだろ、とトウヤ。
不意に開いたその口ぶりがやけに詳しくて、伸ばそうとしていた指先が止まる。だけど隣の幼馴染はそんなのお構いなしといった様子で、私の手元を覗きながらすらすらと中身の説明を続けていった。
あの四角いのはピスタチオで、そっちがラズベリー。聞き慣れたはずのテノールが普段よりも少しだけ早く流れていき、説明の合間に時折言葉を選ぶような間が混ざる。
何かを隠す様に言葉を選ぶ様子がなんだかトウヤらしくない。何より、チョコの中身には今まで1ミリも興味を示さなかったくせに、なんて。
ほんのわずかな違和感には気付かない振りをして、そろりと視線を上げる。盗み見た先に飛び込んだのは、想像していたより遥かに近付いていたトウヤの横顔で、心臓が一瞬だけ跳ねる。
別に。これまでだってなんとも思わなかった距離のはずで、それなのに急に落ち着かなくなってしまった。かといってその理由に心当たりがあるわけもなく、居心地の悪さだけが急激に足の先まで巡っていく。
耳元で落ちる声に心音は少しずつずれていき、鼓膜の奥でじんと熱を持った。触れた肩の体温はチョコレートが溶けるみたいに境界があやふやになっていく。
胸の奥がそわそわと浮き上がるのを感じ始めた所で、結局、理由を探すことなく視線を箱へと戻してしまった。
「……分かった分かった。ほら、トウヤも食べたかったんでしょ?ひと粒選んでいいよ」
覚えてしまうくらい食べたかったのかも、なんて。安直に導き出した答えで繕うように呼吸を整える。勝手に感じてしまった気まずさを払い除けるように、わざとらしく箱を差し出した。
そんな私を見て、眉間にかすかな皺を寄せたままトウヤは小さく息を吐く。差し出したチョコには興味が無さそうで、けれど返事のような溜息には呆れと諦めのようなものが滲んでいた。
「なに、その顔」
「お前、ほんっと鈍感だよな」
不満そうな色をこちらへ向けながら、彼は二回目のため息を吐き出した。
「昔から甘すぎるの苦手だろ。……母さんが買ってくるのはもっと甘いから」
「え?どういう事?」
確かに、しっかり目の甘さよりは少し苦味のある方が好みだけれど……。
百歩譲って私が鈍感すぎるとしても、トウヤも大概分かりにくいだろう。結局彼の言わんとする事が分からなくて、本日三回目のデカめの溜息を吐かれることになる。
「なまえが毎年楽しみにしてるそれ。母さんからじゃないよ」
「え、……え?!これ叔母さんのお裾分け、じゃなかったの?」
じゃあ誰からなの、と言いかけた口をぎゅっと閉ざす。そんな事聞くまでもなくひとりしか思い浮かばなかった。
ずっと叔母さんからだと思い込んでいた毎年の贈り物が、実は幼馴染本人からのものらしい。そうすると次に気になるのは、どういうつもりで用意してくれていたのか、という事で。
幼少期、1番最初に貰った時の言葉をもう一度思い起こす。お世話になっている人。それから、好きな人。
この男が毎年律儀に義理チョコなんて用意する性格じゃない事はよく知っている。だけどそれを認める事も出来そうになくて、考えは纏まることなく振り出しへと戻る。
これまで一瞬だってそんな素振りを見せられた事が無いのだ。急にそうだったんだ、と飲み込めるわけもない。
次の言葉が出ないまま縋るように顔を上げる。本人に助けを求めるなんておかしな話だ。けれど他に逃げ道もないのだ。
「言っとくけど、義理じゃないから」
案の定。トドメのような一言に、私はあっけなく蹴り落とされる。これ以上は自分で考えてみろとでも言いたげに口角を上げる始末だ。
思い返せば、チョコレートの甘さが明らかに控えめになった年があったような。今までは叔母さんが気を利かせてくれていると都合のいいように解釈していたけれど……、つまりそれはそういう事なのだろう。
逃げ道を失った今の私に、幼馴染の余裕めいた表情が突き刺さる。
「トウヤも大概、分かりにくいでしょ……」
「なんとでも。まぁ、明日から楽しみにしてな」
随分と軽く落とされた宣戦布告。この生煮えのような状態はまだしばらく続くらしい。
重みを持ってしまったチョコレートには、しばらく手を付けられる気がしなかった。