友人A
ぐずぐずと机に伏せっている頭を、またかと呆れ気味に見下ろしながらグラスを煽る。中身はすっかり生温くて、麦の味が喉の奥へ貼り付いたような不快感が残る。口直しのつもりで目の前の唐揚げを放り込んだが、こちらも冷めてしまっていてとてもじゃないが気分転換にはなりそうになかった。
聞いて欲しい話があるから会えないか、なんて。彼女に誘われるままに家を出る事は、実は今回が初めてではない。目の前でめそめそぐずぐずと泣いている女、もといなまえ。彼女はどういう訳か、三人いる幼馴染の中で毎度俺だけを呼び出しては痴話喧嘩の愚痴をぶちまけたがる。
最初はそんなこと俺よりベルの方が適任だろうと突っぱねた。だけど彼女は決まって毎回俺を呼び出すから、四回目くらいでこちらが諦める羽目になった。ちなみに今日は記念すべき十回目の、なまえちゃんを慰めようの会、である。
「はぁ……ほら、もうやめとけって」
「だって、飲まなきゃやってらんないじゃない」
涙と鼻水を垂れ流しながらも、絶対に握ったグラスは離そうとしないなまえ。そんな彼女から少々強引に酒を奪い取る俺。個室に通してもらえて本当に良かった。いや、何も良くないのだけども。
「よりによってヒウンで浮気されるなんて思わないじゃん?!酷いと思わない?もっと上手く隠しなさいよお」
「ウンウンそうだなー」
枝豆に手を伸ばしながら聞いている風を装って相槌を打つ。自分の生活圏内で自分ではない他の女が自分の彼氏と腕を組んで歩いていたのだと、もうこの話は店に入ってから六回は聞いた。
前回は確か、貸したお金が返って来ない話。その前は決断力が無いだったか。絶対に謝らない男だっていうのも聞いた事がある。
その都度別れたら?と助言してやるのだけど、なまえときたら愚痴を吐くだけ吐いて、次の日には物分りのいい彼女へと戻ってしまう。
こちらの気なんて知らない彼女は、話のタネが出来るとすぐに連絡を寄越してくるから全く勘弁して欲しい。可愛い可愛い幼馴染の頼みでもタダ飯だけでは割に合わないし、連絡が来たら毎回二つ返事で受けてしまう自分も自分だ。
惚れた弱みとはまさにこの事だね。少し前、チェレンは呆れながら俺にそう言った。ぐうの音も出なかった。分かっている。断ればいいものを、結局放っておけず出向いてしまう自分が悪い。
相変わらず机の上でぐずぐずと泣いているなまえ。だけど俺はその目尻の涙を拭ってやれる立場に居なくて、そんな勇気もなくて。
奪い取った酒の代わりに、頼んでおいたジョッキいっぱいの水を水割りだからと言いくるめて握らせた。彼女はそれをなんの疑いもなく思い切り煽る。すっかり出来上がってしまったなまえにとって、それが水割りだろうとただのお冷だろうと、もはやなんの意味も成さないのだろう。
危機感無さすぎだろ。幼馴染という枠の中でも少なからず信用されているのは素直に嬉しいが、同時にこの無防備さは手に余る。
「さっさと別れたらいいのに」
どうせ別れないんだろうけど。いつもの事だ。今回も、明日にはすっかり仲のいい恋人に戻ってしまう。そうでなければ困る。だってこれは、その為の飲み会なのだから。
本心のようなそれを誤魔化すように自分のグラスを傾けた。
完全に潰れてしまったなまえを担ぎ店を出れば、ひゅうっと冷たいビル風が背中から追い越して行った。身を刺すような冷たさも酔い覚ましには丁度いいだろう。
夜も遅い時間だというのに、ヒウンの街は相変わらず人が多い。キラキラと無数の電飾に飾られた港がこの時期の有名な観光名所になっていることも手伝ってか、先程からすれ違うのは腕を組んで歩く男女ばかりだ。
対して酔い潰れた女を強引に連れ歩いている俺は、それはまあ……かなり場違いで。不可抗力とはいえ、このままでは少し世間体が悪いかもしれない。噴水広場の方に行けば良かったと後悔したが、きっとあちらはあちらで甘ったるい空気が流れているのだろう。それが余計に腹立たしい。
こんな所をバトルサブウェイの相棒が見ようもんなら、きっと開口一番こう言うだろう。そんなんだから一生いい人止まりなのよ!と。頭の中のイマジナリートウコはそう言った。
こんな所にいつまでも居ないでさっさと帰ればいいのだが、それもこの酔っ払いをどうにかしない事には何も始まらない。港の隅にひとつだけ空席のベンチを見つけなまえを座らせた。
「さむ……」
「……」
「……、ほらこれ。暖かいから持っときな」
道中で買っておいた缶コーヒーを握らせる。その手があまりにも冷えきっていて、ついでに自分のマフラーも貸してやった。とりあえず一旦小休憩を挟んで、近所までは送ってやろう。
そこまで考えを巡らせて、ほらこういうところぞと自虐的な笑いがもれる。本当にチェレンやトウコの言う通りだ。
なまえを家へ送る度、早く別れてくれたらどんなに楽だろうと心の底から思う。思うだけ。俺にしといたら?なんて事は言う度胸もなくて、結局はこうして都合がよく面倒見の良い友人を演じてしまう。
何かが気道につっかえている息苦しさと、それを後押しするように胃に重たいものが乗っている。苦しくて、吐き出したくて、言えない。喉まででかかった言葉は毎回必死に飲み込んでは、溜め息へと変えてバレないように吐き出していく。
すっかり大人しくなってしまったなまえの様子を、そっと横から覗き見る。イルミネーションが反射する海をただじっと見つめている。視線の先にたまたま海があるだけで、実際はただ真っ直ぐに目の前の空間を見つめているだけのようにも見えた。
目を離せばすっと消えてしまいそうなくらい静かで、綺麗で、儚くて。心臓が鷲掴みにされるっていうのはこういう事なんだろう。見れば見るほど鋭く痛むのに、目が離せない。
――どうしようもないな、本当に。
こいつのこんな顔、例の彼氏は見た事ないのだろう。
ぶくぶくとあぶくのように上がってきた小さい優越感は、コーヒーと共に胃の奥へと押し流した。