アルタイルのねごと
「39.1度」
馬鹿は風邪ひかないんじゃなくて気付かないらしいよなんて言って、マツバが枕元から見下ろすものだから居心地が悪く目を逸らしてしまった。
朝起きた時から体の節々が怠かったり、喉の調子が良くなかったり。そういえば頭の奥も何となく痛かった気がする。こうして自分の不調を並べてみれば完全に風邪の症状なのだけど、彼の言った通り馬鹿な私は、しっかりみっちりジムトレーナーとして仕事をこなした結果ぶっ倒れたらしい。イタコさんたちが大慌てでマツバを呼びに行き、これまた大慌てで母屋へ担ぎ込まれたのはつい先程のことだ。
「全く……、体調悪いならちゃんと言いなよ」
「ぐうの音もでないです」
「こんなになるまで気付けなかった僕も悪いから、今回はお説教しないでおくよ」
「ほんとにごめんなさい……」
とにかく休むこと、と念押ししながらマツバが掛け布団を掛けなおしてくれる。
39度なんて高熱いつぶりだろうか。しんどいやらやるせ無いやら。おばあちゃんたちをびっくりさせてしまったし、マツバにも迷惑をかけてしまった。
イタコのおばあちゃん達は私の抜けた穴を難なく埋めてくれるだろう。皆さん私なんて足元にも及ばないような凄腕のベテラントレーナーばかりだ。ジムのことは心配ないよとタエコさんは言ってくれたが、それでもやはりどうしたって申し訳なさが勝ってしまう。
「……マツバ、私ひとりで平気だから仕事戻って」
「まだ次の挑戦者がくるまで時間があるし、君が寝るまでここにいるよ」
どうせ今日は僕のところまでたどり着く人なんていないと思うし。そう呟きマツバは穏やかな表情で目を細めた。
エンジュには虹の神様がいる。
マツバは幼い頃よりその神様のことだけを一途に想い、熱心に修行に励んでいた。もちろん御家柄のこともあっただろうが、一度でいいからホウオウに会ってみたいと言ったあの時の瞳は、大人になった今でも目に焼き付いている。
いつもの物静かな子どもからは想像できないほどの熱をこもらせ、ゆらりと煌めいた薄藤色。きらきらの宝石のようなあの瞳が私を魅了したのは、きっとあの時だろう。
そんな虹の神が突然スズの塔に降り立ったのはまだ記憶に新しい。ホウオウさまが蘇った。街中がその話題で持ち切りで、虹の神はマツバより1回りも年下の子どもを選び神様は行ってしまったそうだ。マツバの夢は終わったのだ。
しばらくは酷く落ち込むと思っていたが、彼は想像していたよりも元気そうに日々を送っている。日課の修行も毎朝休まず続いているし、ジムの仕事だって変わることなくこなしているように見える。無理をしているんじゃないか。そう思えるほど、彼の様子は普段通りだ。
彼が自分の人生をどれほどホウオウへ費やしてきたかを私はよく知っている。だって、そんなマツバのことをずっと追い続けているのが私だから。
私が倒れている場合ではないのに。私の助けなんて必要がないくらいマツバはいつも通りで、むしろ私が助けられている始末。というかそもそも、マツバの支えになれたらいいのになんて要らぬお節介だったのかもしれない。
――あーあ、本当に情けない。
風邪の力というのは恐ろしいものでろくなことを思い浮かばない。いっそ吐き出してしまいたいような自己嫌悪が胸の奥でぐるぐると渦を巻き始め、視界をぐにゃりと歪ませた。
「えっ、何。どうしたの」
「……な、なんでもない」
「何でもないことないだろ」
湿り気を帯びてきた目尻を慌てて拭う。これ以上マツバを困らせる訳にはいかない。いや、これ以上情けないところなんて見せる訳にはいかない、という方のが正しいか。
「まつば、ジム戻りなよ」
「頑固だな。まだそんな事言ってるのかい」
「ほんとに平気だって」
「平気って顔じゃないよ。そのくらいは分かる」
部屋の隅から持ってきた座布団へと腰を落ち着かせ、マツバは呆れ顔でそう続けた。本人には自覚がないようだけど彼にも強情なところがある。私が何を言ってもジムから連絡が来ない限り動くつもりはなさそうだった。
「心配かけてごめん……」
「そんなもの幾らでもかけたらいいさ」
「、ごめんなさい」
もういいからと、マツバが私の頭をゆっくりと撫でる。優しく大丈夫と繰り返す彼の声は、まるで泣いている子どもを安心させるようで。先ほど引っめたはずの涙がぽろぽろと目尻を零れ落ちた。
「わたしが、」
「うん」
「わたしが、寝込んでる場合じゃないのに……。だってマツバ、ホウオウのことなんにも言わないから。心配なの。なのに私が倒れて情けない」
悔しい。涙と一緒にぽつりぽつりと、身体の中に閉じ込めていた言葉が漏れ出していく。
あなたのことが心配でたまらなくて、でも私じゃマツバの支えになんてなれなくて。そのうえ迷惑をかけてしまって、だから悲しくてやるせないのだと。
溢れた順番なんてものも滅茶苦茶で、その上聞くに絶えない独り善がりな言葉ばかりだ。
「そんなこと考えていたのかい」
「だってマツバ、全然平気そうだから……」
馬鹿だなあ。私の顔へ遠慮なくタオルを押し付け、マツバが一言呟いた。
「そんなハッキリ言わなくてもいいじゃない」
「まず鼻水なんとかしなよ」
「しょうがないでしょ、」
「はいはい」
涙と鼻水を強引に拭い鼻をすする。
泣いたからだろうか。一気に疲労度が上がったような。目の奥は重りがぶら下がっているんじゃないかってくらい痛いし、頭もボーっとしてうまく回転していないのを感じる。
私の顔が一通り綺麗になったところで、マツバが再び口を開いた。
「全然分かって無いみたいだし、この際はっきり言わせてもらうけどさ」
「うん」
「なまえが居てくれるから何とかなってる事って結構沢山あるんだよ」
「……うそだぁ」
「そんなしょうもない嘘つくわけないだろう」
泣き止ませる為の口実だろうと思いじとりとマツバに視線を投げると、流石に怒るよと軽く頬を弾かれる。だけど、怒ると言いつつ藤色の瞳はすごく穏やかに私を見ていて、それ以上何も言えなくなってしまった。
「君がいつも通りで居てくれるから僕もそうできるんだ。だから何にも出来ないなんて言わないでよ」
「……、」
「ほら返事」
「わ、わかった」
私の返事を聞いて満足したのか、マツバが今度こそ寝ろと乱れた布団を直してくれた。
私がいつも通り居るだけでいいと言った彼の言葉が、スっと身体に馴染んでいく。さっきまでのぐずぐずした気持ちなんて一気に晴らしてしまった。
私の首までしっかり布団を被せたマツバが、少し考える素振りをしてゆっくり口を開いた。
「……どうせ君、熱が引いたら何にも覚えて無いんだろうね」
「ひ、酷い……!そんなにばかじゃない」
「そうだといいね」
「もう、からかってるでしょ」
「いつもの事だろう」
悔しかったら、忘れる前に風邪なんかさっさと治すんだね。そう言ったマツバの顔はなんだかとても楽しそうに見える。彼が笑っているならもうなんでもいいか。ぼんやりしている頭の隅でそんなことを考えながら、まどろむ意識を手放した。