帰ったら連絡する。そんなメッセージが入っていたのは夕方の事だっただろうか。
週に一度。トウヤからの着信を知らせるライブキャスターは、時計の短針が十を過ぎた今もその役目をただ静かに待ち続けている。
かちかちと時計の針が薄いワンルームに響く。灯りは随分前に落としてしまって、今はベットサイドの小さな間接照明だけが辺りを柔らかく照らしていた。
夕刻よりイッシュ全域で降り出した大雪は、ここホドモエの街もすぐに銀世界へと変えてしまった。きっと、リーグがある北東地域はもっと降り積っている事だろう。大雪情報を淡々と流すラジオへ何気なく耳を傾けながら、つい先程温めたばかりのホットミルクを口に含んだ。
もう今日は大丈夫だからと、そう連絡するべきなのは私からなのだと思う。無理をさせたい訳でもして欲しい訳でもない。頭では分かっているのに、私は未だに彼からの連絡を待ち続けてしまっていた。
今日あった事。食べた物。日常的な他愛もない話をするだけの数分間。私にとって、今、トウヤとのつながりを確かめられる唯一の時間だった。
たった数分を手放す勇気も彼を気遣う心の余裕も、今の私にはどちらもない。全てが中途半端に浮いたそれは、重りのように雁字搦めに絡って私の気持ちを沈めていく。
声が聞きたい。会いたくて、直接顔が見たい。だけど、迷惑はかけたくないし無理もさせたくない。だなんて、全てが成り立つわけ無いのに。
時折顔を覗かせる自分勝手で独りよがりな欲深さや不甲斐なさは、その度に見ない振りをして心の奥底に押し込んでいる。まるで荷物をパッキングするみたいに。ぎゅっと潰して無理矢理蓋を締める以外、やり過ごす方法が分からなかった。
「……、!」
机上のライブキャスターから鈍い振動音が響く。青白い光で着信を知らせる液晶へは、待ち望んだ相手の名前が表示されていた。
カトレアに弱音なんて溢すんじゃなかった。それとも、感情をねじ込む隙間なんてもの、もうとっくに無かったのかもしれない。
トウヤの名前を見ただけなのに、きつく締めたはずの感情の蓋はいとも簡単に緩んでいく。敵わない、だけど悟らせたくない。だから深呼吸で誤魔化して、ぐにゃりと歪む視界は瞬きで必死に取り戻した。
「、……もしもし」
「あ、ナマエ?俺だけど」
「お疲れ様。今帰り?」
「あぁ。けどもう着くよ」
大雪で道が止まって大変な目にあった、だとか。その次は先日の放送の話。いつもと同じ調子で取り留めのない雑談が続いていく。
――会えないのなら、せめてこの声だけでもずっと耳に残ればいいのに。
彼が笑う声も。私を揶揄う声色も。緩く穏やかな語り口も。トウヤの声は私の鼓膜を心地よく震わせながらも、会えない現実を突きつける。それが堪らなく苦しくて仕方がない。
「――あのさ、ナマエ」
「?、うん」
「いや。えっと、……なんかあった?」
こちらを気遣いつつもなにか探るようなトウヤ。その声が私の心臓をぎゅうぎゅうと握りつぶす。胸が張り裂けるみたいに痛くて苦しくて、迫り上がる会いたいという一言が喉の奥で張り付いて飲み込めない。
「……、言いたくない?」
少しの沈黙の後、トウヤが再び切り出した。言葉を選びながら。だけど少し咎めるような声色は私の体を強ばらせる。
きっと全て見透かされている。あとは私が吐き出すのを待っている。そんな気がして、だけど気丈に振る舞った。
何も無い。至って普通で、大丈夫だと。
返した声は震えていないだろうか。
***
何かあった、だなんて。そんな事分かりきっていたのに。黙り込んでしまったナマエの様子に、これは聞き方を間違えたなと小さく溜息を吐く。だからといって、これ以上の適切な言葉が見つかる気もしないのだけど。
思えば随分と我慢をさせてきたのだろう。それは多分、チャンピオンになるよりもずっと前から。去年までは彼女が気安く我儘を言えるような距離では無かったし、今も忙しさを理由に時間を裂けていない。
それでも、会いたいと言ってくれたのならば。そうしたらすぐにでも会いに行くのに。これ以上我慢なんてしなくていいのに。
「……言いたくない?」
案の定、ナマエは何でもないよと言い切った。今にも泣き出してしまいそうな程に声を振るわせて、それでも気丈に振る舞うことにしたらしい。
至らなさからくる焦燥感の裏側に、見ないふりをしていた苛立ちが顔を出す。それは心の奥底を逆撫でるようにして急激に広がり、無意識のうちに口を突いて出た。
「……何にもないわけないだろ」
「、トウヤ?」
「俺が気付いてないと思ってる?それとも、そんなに信用ない?」
「ちが、っ!そうじゃなくて」
「じゃあ何」
苛立ちが捲し立てるように飛び出して止まらなくなる。
「……忙しいの、邪魔したくないの。負担になりたくない。だから言いたくない……言えるわけないよ。だってトウヤはチャンピオンで、英雄で。私なんかが、」
「――それ、本気で言ってる?」
自分でも驚く程、声が重く響く。
チャンピオンで英雄。たった二言が全身に重く伸し掛る。彼女にだけは言われたくなかった言葉で、そう見られたくなかった肩書きだった。
画面の奥の息を呑む気配に顔を上げる。ナマエが苦しそうに言葉を詰まらせ、顔は酷く歪んでいた。ギリギリで堰き止められていた大粒の涙が、ひとつふたつと溢れていく。
それを見て、ようやく我に返った。
泣かせたかった訳じゃない。責めたかった訳じゃない。こんな言い方したかった訳でもないのに。
「……。ごめん、ちょっと頭冷やす」
そう言い残し、逃げるようにして通話を切る。
どうすればよかったのだろう。何が正解だったのか分からない。俺はただ、真っ暗になった画面を見つめる事しか出来なかった。